最近、痛切に感じることがあります。
それは「言葉が届かない」ってことです。

毎週の「朝礼や終礼」、さらには「授業中」に、先生たちはどんなことを考えながら皆さんに向かって話をしていると思いますか。
「今日はどんな話をしようかな。」「どうやったら、皆に伝わるかな。」
貴重な時間を割いて話をするわけですから、事前の準備は絶対に怠りません。時と場合によれば、1週間も、さらには1ヶ月も前から、その日、君たちに伝えたいことを必死に考えている時だってあります。ゼミのない日でも、街中でふっと見かけた光景に感じたことを、「よし!次のゼミで話すぞ!」なんて、四六時中、話題を探しているくらいです。

いざ話をしているときは「伝えたい」「届けたい」という気持ちが、あれこれ言葉を生み出してくれる。むしろ、先生たちが考えていることはたったひとつ。「誰が、一生懸命聞いていて、誰が聞いている“ふり”をしているのかな」ということが頭を過ぎります。

普段はどちらかと言うと、朝礼や終礼、授業など、「集団の中のひとり」として話を聞く場面が圧倒的に多いですよね。しかし、どんな時も先生たちは「ひとりひとり」に伝えたいと思って話をしています。しかし、聞く側からすれば「自分には関係ない」と思っている、いや、意識して「聞こう」としない人が増えているのかな、と思えてなりません。

「KY(空気を読めない)」という言葉をよく耳にします。
この言葉が流行りだしたのも、必然的のように感じています。つまりは「相手が何を言おうとしているのか」を理解しよう、つかもうとしない人が増えてきた。理解デキナイというよりも、理解シヨウとしない姿勢が、周囲の状況を読み取れない、相手の心を読み取れない状況を生み、その結果、空気を読めない人が増えてきたのかもしれません。

「以心伝心」という言葉があります。「考えていることが、言葉を使わないでも互いにわかること」「言わぬが花」「みなまで言うな」「行間を読む」など、様々な表現で言い換えられますが、これは日本が昔から大切にしてきたひとつの「文化」です。

学生時代は、教科学習とテストの点数で、「頭のいい人」といった優劣がつけられがちです。しかし、大人になればこの「空気を読む力」もあわせて求められます。思いやりのある人、周囲からの信頼を勝ち取れる人というのは、総じて空気が読める人です。

「ティエラ」には「空気の教育」という言葉があります。
ティエラのゼミは、単に教科学習をするだけではなく、この「空気を読む力」養う“特別な”場所です。校舎に入ってから、出るまで、全てが勉強なのです。
朝礼や終礼、授業中、テスト中、更には、休み時間や先生や友達と話をしている時、面談しているときや先生からの激励電話まで、ゼミには、皆さんが「成長」するためのチャンス、きっかけがたくさんあります。

まずは、次回のゼミから常に「先生は、どんなメッセージを伝えたいのだろう?」と、意識してみてください。
きっと、今までとは違った収穫があるはずです。何より、「空気の読める人」に、一歩近づくはずです。