先週の日曜日、私が住んでいる町内会の廃品回収がありました。たくさんの廃品が回収場所に集められ、私はその仕分けをする係りだったのですが、「なんでこんな物が?」という物が置かれていました。
それは、使い終わったノートでした。

 十二、三冊のノートが紐にしばられた状態で置かれていたのです。思わず手にとって見ると、表紙に書いてあったであろう名前は消されていましたが、教科名などはそのまま残されている状態でした。紐でしばってあったので、中を見ることはできませんでしたが、外見から判断するとそれなりに使い込まれたノートのようでした。時期的に前の学年のノートを処分したといったところでしょうか。私はすごく悲しい気持ちになりました。

 ノートと言えば、忘れられない生徒がいます。
 すごく真面目で熱心な女子生徒で、志望校は地域のトップ校でした。学校の成績でもティエラの模試などでも、まず合格は間違いないだろうという生徒でした。そんな生徒だったのですが、さすがに入試本番の二・三日前は極度に緊張し、なかなか勉強が手につかず、どうしたらいいか相談されたりもしました。

 ところが、入試前日の最終授業での姿は二・三日前とは見違えるようで、すごく自信に溢れていました。不思議に思って理由を聞いてみると、ある事によって、すごく自信と勇気を持てたということでした。

 その生徒は中一の春にティエラに入り、三年間一生懸命ティエラで勉強してきました。そして、ティエラで使った数十冊のノートを三年間きちんと置いていました。不安で仕方なかった入試直前に、その生徒はその百冊近いノートを一冊ずつ、自分の部屋の床の上に丁寧に積み上げていきました。中一の最初の頃のノートはまだまだ勉強のやり方が充分身に付いてなかった事をあらわすかのように、買ったときよりも少し膨らんでいるぐらいだったけど、学期や学年が進んでいくとノートはどんどん分厚くなっていきました。

 中三の二学期からの「公立模試用のノート」なんて、問題用紙も解答用紙も解説プリントも全部ノートに貼ったので、倍以上に膨らんでいました。
 「百戦錬磨のノート」もかなり…。最初はそんなに高くなるとは思わなかったのに、積み上げるのに苦労するぐらいの高さになりました。最後の一冊を一番上に置いた時に見えたもの、それは、自分の身長と同じくらいの高さのノートでした。勇気が湧いてきました。
 「自分は三年間、これだけの努力をしてきたんだ。自信を持って、入試に臨もう!」と。

 その生徒は見事にトップ校に合格し、三年後の大学入試においても第一志望校に合格しました。
きっと東進での三年間でも自信と勇気をくれるノートを作り続けることができたのだと思います。

 みなさんはどうですか? ノートを大切にしていますか?
 ノートはあなたに自信と勇気をくれますか?

最近、痛切に感じることがあります。
それは「言葉が届かない」ってことです。

毎週の「朝礼や終礼」、さらには「授業中」に、先生たちはどんなことを考えながら皆さんに向かって話をしていると思いますか。
「今日はどんな話をしようかな。」「どうやったら、皆に伝わるかな。」
貴重な時間を割いて話をするわけですから、事前の準備は絶対に怠りません。時と場合によれば、1週間も、さらには1ヶ月も前から、その日、君たちに伝えたいことを必死に考えている時だってあります。ゼミのない日でも、街中でふっと見かけた光景に感じたことを、「よし!次のゼミで話すぞ!」なんて、四六時中、話題を探しているくらいです。

いざ話をしているときは「伝えたい」「届けたい」という気持ちが、あれこれ言葉を生み出してくれる。むしろ、先生たちが考えていることはたったひとつ。「誰が、一生懸命聞いていて、誰が聞いている“ふり”をしているのかな」ということが頭を過ぎります。

普段はどちらかと言うと、朝礼や終礼、授業など、「集団の中のひとり」として話を聞く場面が圧倒的に多いですよね。しかし、どんな時も先生たちは「ひとりひとり」に伝えたいと思って話をしています。しかし、聞く側からすれば「自分には関係ない」と思っている、いや、意識して「聞こう」としない人が増えているのかな、と思えてなりません。

「KY(空気を読めない)」という言葉をよく耳にします。
この言葉が流行りだしたのも、必然的のように感じています。つまりは「相手が何を言おうとしているのか」を理解しよう、つかもうとしない人が増えてきた。理解デキナイというよりも、理解シヨウとしない姿勢が、周囲の状況を読み取れない、相手の心を読み取れない状況を生み、その結果、空気を読めない人が増えてきたのかもしれません。

「以心伝心」という言葉があります。「考えていることが、言葉を使わないでも互いにわかること」「言わぬが花」「みなまで言うな」「行間を読む」など、様々な表現で言い換えられますが、これは日本が昔から大切にしてきたひとつの「文化」です。

学生時代は、教科学習とテストの点数で、「頭のいい人」といった優劣がつけられがちです。しかし、大人になればこの「空気を読む力」もあわせて求められます。思いやりのある人、周囲からの信頼を勝ち取れる人というのは、総じて空気が読める人です。

「ティエラ」には「空気の教育」という言葉があります。
ティエラのゼミは、単に教科学習をするだけではなく、この「空気を読む力」養う“特別な”場所です。校舎に入ってから、出るまで、全てが勉強なのです。
朝礼や終礼、授業中、テスト中、更には、休み時間や先生や友達と話をしている時、面談しているときや先生からの激励電話まで、ゼミには、皆さんが「成長」するためのチャンス、きっかけがたくさんあります。

まずは、次回のゼミから常に「先生は、どんなメッセージを伝えたいのだろう?」と、意識してみてください。
きっと、今までとは違った収穫があるはずです。何より、「空気の読める人」に、一歩近づくはずです。

「蚤」(のみ)という漢字は、「かきたくなるかゆい虫」という意味があるそうです。
なんだか名前を聞いただけでもかゆくなりそうですね。

ウィキペディアには「節足動物門昆虫網ノミ科に属する外部寄生昆虫」とあります。
「寄生昆虫」、つまり、自分で生活しないで人間や犬や猫、鳥などの体表に寄生して、その血をすって生活している昆虫なんだ。

今ふうに言えば、「パラサイト」、日本風に言えば「居候」(いそうろう)だ。二酸化炭素を感知して寄生する主人をさがして、そこにこっそりとすみつく。寄生主が死んだら別の主人を探して移動する。体長が0.9ミリ以下という小さなノミの、なんとも、しぶとい生き方がほほえましくもあります。

人間に寄生する昆虫として「のみ」と同じくらい有名なものに「しらみ」がいます。今はどちらも日常の話題に登場しなくなりましたが、「のみとしらみ」ほど、昔から人間に親しいものはありません。衛生状態が今よりも悪い時代は、日常の身近なところに「のみとしらみ」がいました。それでも、このふたり(?)は、人間にとってはずいぶんと違う印象で見られています。

しらみは「柔らかく、しめりがちで鈍い動きで、陰性」、のみは「固く、元気に飛び跳ねて、陽性」といった感じでしょうか。だから、人間に受けが良いのは「のみ」のほうです。そういえば、「のみの夫婦」とか「のみの心臓」とかいった言葉もあります。「のみの市」「のみのサーカス」というのもあります。

20世紀の初めまで「のみのサーカス」は実際にあって、人前で芸をするノミがいたそうです。
円錐の紙をのみにかぶせて、跳ねるのみがそれを動かして、観客にはのみが踊っているように見えるのだそうです。

また、こんな話もあります。のみをガラスの容器の中にいれふたをする、するとのみはジャンプする。何度も何度もジャンプするが、ふたを超えた高さまでは飛べない。やがて、ふたをとっても、のみはふたのところまでしか飛べなくなってしまう。「自分はこの高さまでしか飛べない」と思って(?)しまうのだそうだ。

教訓。
「人間ものみのサーカスのように、自分はこの程度だと決めつけてはいけない」
「人間は、自分で自分の限界を決めてしまったらそこで成長は止まる」

君たちの中にも、「自分はこの程度だ」と、自分で勝手にきめつけて、努力することをあきらめてしまった人はいませんか。

のみしらみ 馬の尿する 枕もと(芭蕉)
よい日やら のみが跳ねるぞ 踊るぞや(一茶)