みんなはよく「授業を受ける」といいます。
授ける、授かる という意味の「授」という言葉、よくみると「てへん+受ける」という組み合わせになっています。

手を使って(意識的に、積極的に) 受け止める姿勢こそが「授業」なのでしょう。
しかしおうおうにして、右側の「受ける」だけが大きい人がいます。

受け身で、ただぼんやりと聞いているだけ。これでは授業ではなく受業になります。
自分で調べたり、問題を解いたりしてから臨む。そうすれば、自ずと目は黒板に集中し、耳は先生の声をききのがしまいとし、手はノートに書き写すのに使われます。

以前、先生が教えた生徒の話です。
中3の男子でしたが、その子のノートを見てみると、英語の問題文も全て書き写し、当然日本語訳もして、それに赤ペンで書きこみがしてありました。公立模擬試験がはじまると問題文全部をノートに写して復習してきていました。それまでのテキスト予習でそうやって授業に臨むというくせがついていたから苦ではなかったそうです。長文や会話文の中の単語や用語や言い回しが、次のテストで問題として出るかもしれないから、ともいっておりました。その子は授業中に鉛筆を放すことはありませんでした。
社会の問題が延々とノートに書かれているのも圧巻でした。そういえば社会の重要用語というのは、あるときは問題で、あるときは答えででますね。

よくお母さんたちも「授業があるから能開に行く」というと安心されます。でも受け身の受業では何時間、何十時間参加していても身になりません。
手偏のほうが大きい「授業」で参加しないと意味がありません。思い当たる人がいたらこのゼミから変えましょう。

付け加えると、きく時も「門+耳」でなく「聴く」でいて欲しいと思います。
耳と目と心が全部がはいっていますから。