「人生最後に食べるとしたら?」

なんのために発せられるか意味不明な問いだが、そう問われたら答えは決まっている。
答えはカレーだ。
そんなわけで火曜はカレーライスの日と我が家では定まっているが、そのカレーはシェフ(妻)の気分で自由奔放に作られるため想像もつかないカレーがでてくる。
いつだったかひき肉と豆腐の餡かけカレーがでてきた。
明敏な諸君であれば察していただけると思うが、それは麻婆豆腐というものだ(カレー風味ではあるが)。
そう言いながら未知との遭遇を楽しんでいる(妻の名誉のためどれも美味しいことを申し添えておく)。
さて諸君、『カレーライスの唄』なる小説があることをご存知かな。
本作は1960年代の日本を舞台に会社を辞めた男がカレーライス屋を開くまでの奮闘を描いたものだ。
敗戦から十余年、若者の熱気と鬱屈とが交錯しながら、努力すれば成功するという未来を無邪気に信じられる幸福な時代の物語だ。
しかし、そこはそれ、60年も前の小説だ。
違和感のある表現もある。
女性が無条件でお茶くみをさせられたり、職場でタバコをふかしていたり、挙句の果てには飲酒運転をしていたりと令和ではまちがいなく炎上する描写ばかりだ。
こんな時代もあったのかと昔日に思いを馳せつつ読んでいると奇妙な表現に出会った。
それはこうだ。

「あの人、蛍光灯ね」

賢明なる諸君、あの人がどんな人かわかるだろうか。
令和を生きる我々には不可思議すぎる表現で、ほとんどの人が正確に意味をとらえることはできないだろう。

さて、そうなると当時の人々はこの言葉の意味が分かったのだろうかという疑問がもたげてくるが、そもそもこの小説は新聞に連載されており、不特定多数の読者が読むことを想定して書かれたはずだ。
であれば高度成長期に生きていた人であれば自明の表現と言えそうだ。
それにしてもたかだか60年ほどの間でまったく意味が通じなくなってしまった。
おそらく諸君の教室の電気は蛍光灯であろう。
勉学に勤しむ諸君を頭上から煌々と照らしたもう蛍光灯、いまだ健在なりとその眩い光は諸君に語りかけているはずだ。
そう、モノはわかるが意味がわからない。

そこでAI様におうかがいをたててみた。

「あの人、蛍光灯ね」という表現は、「反応が鈍い」「話の理解が遅い」「空気が読めない」 といったニュアンスで使われることがあります。
なぜ「蛍光灯」と表現されるのか。
これは、蛍光灯が点灯するまでのタイムラグに由来しています。
昔の蛍光灯の点灯方式、特に古いタイプの蛍光灯(グロースタータ式など)は、スイッチを入れてもすぐにパッと明るくならず、一瞬チカチカしたり、数秒経ってからようやく点灯したりする特徴がありました。
この「すぐに反応しない」「ワンテンポ遅れる」という特性が、人の理解力や反応の鈍さになぞらえられた結果、「蛍光灯」という比喩表現が生まれました。

なるほど。
たしかに我が思い出の中の蛍光灯は点灯するまでチカチカしてなかなかつかなかった。
いまの蛍光灯はスイッチオンですぐに明るくなるためこの比喩表現は忘れされてしまったというわけだ、などと感心していると、諸君、我らが蛍光灯は2027年をもって製造禁止とあるではないか。
なにやら蛍光灯に含まれる微量の水銀が環境に悪いという理由で世界的に製造禁止が取り決められたらしい。
おぉ、なんということよ、日本のみならずこの世から蛍光灯の存在が許されなくなるではないか。
想像したまえ。
いまから30年後の世界、きっと蛍光灯って何という会話がうら若き少年・少女たちの間で交わされているぞ。
我々の常識や知識なんてものはたかだか20~30年で風化してしまう移ろいやすいものということだ。
時々刻々変化の激しい世を生きる我々は常に知識をアップデートし、自らの知見を広げる努力を続けねばならぬというわけだ。

この四文字を胸に刻まれたし。

生涯勉強。