1412223年前、小中高と同じ学校に通った幼なじみが、ガンでこの世を去りました。彼は明るく、元気で、まさかこんなに早く亡くなってしまうとは、夢にも思いませんでした。先生は当時、非常にショックを受けました。

彼は高校卒業後、周囲のほとんどが大学に進学する中、板前になると修行を積んで十数年。念願の自分のお店を構えることができました。先生はお酒が飲めないのですが、それでも彼の作る料理を食べに、彼の話を聞きに、その店に足を運びました。といっても、ごくたまにですが。
正直、あの店に行けばいつも彼や昔の仲間に会えると思っていました。だから、急がなくても、会いたくなったらいつでも会えるから、時間ができたら行こう、と思っていました。
でも、それはもうかないません。彼はこの世にいないわけですから。何となく、心のよりどころを失った気分でした。幼い頃から互いを知っている友に先立たれるという寂しさってこういうものかと。病気がもっと早くわかっていれば、治療もできたはずなのに。

今でも時々思い出します。小学校の帰りに、二人ともスキーを履いたまま、雪の積もった田んぼの上を延々と歩いて帰ったこと。薄暗い夕空の下、冷たい風を頬に受け、足先も冷えて痛いのですが、それでも何だか楽しくて、ゆっくりゆっくり家路に着いたことをおぼえています。

何かを失う時、そして出会う時。テレビドラマのナレーションや効果音、スポーツ中継の実況や解説に慣れていると、「ああ、現実はこんなに静かに『その日』『その時』が来るのか」と感じずにはいられません。

物事にはいつか終わりが来ます。人間の一生も必ず終わりが来ます。しかも、それは静かにやってくるのでしょう。普段からあまりうるさい音の中でばかり暮らしていると、耳を澄ましていないと、こちらに近づいている足音に気づくことができないかもしれません。何も命だけではありません。自分にとって大切な人、大切なことに気づかず、すれちがったまま、時間だけが過ぎていきます。

いつも誰かと一緒にいなければ生きていけないのはおかしなことです。孤独とは何も悪いものではありません。時にはひとり静かに、耳を澄まして世間の、自分が生きている今の「音を、自分の耳でしっかりと聴く時間があってもよいかと思います。
“hear”(聞こえる)のではなく“listen”(注意深く聴く)すること。講習会中も家庭学習そして授業においてもぜひそんな姿勢で臨んでください。きっとこれまでとは違うことに気づくはずです。