170925もう夜はすっかり冷えるようになってしまい、あの暑い夏はどこへやら。太陽頑張れ!
さて、ティエラの夏と言えば合宿ですよね。今年もたくさんの生徒が様々な合宿で大きく成長してくれたと思います。今日は先生の夏休みの冒険の話をしましょう。

少年田中はその時小学4年生。とにかく元気がありあまっていました。夏休みのとある日、少年は友達と2人で近くの海に遊びにいきます。なぜかその日、海岸ではクイズ大会がひらかれていました。頭脳を使う催し事を、夏の海岸でやってしまうってどうなんだ!?と今さらながら思いますが、そんな疑問は少年田中の頭にはまったくよぎらず、とにかく景品をゲットすることに燃えていました。
しかし、大人も参加していたその大会で、小学4年の田中、力及ばずボロ負けです。泣きに泣きました。その時、準優勝したおじさんが「これいるか?」と大きな箱を差し出してきました。それは大きなゴムボートでした。おじさんにとっては持ってかえるのも面倒くさいものだったかも知れませんが、少年田中には後光を放つほどの宝船に見えました。同時に少年の目が捉えていたものは対岸に悠然と浮かぶ“淡路島”でした。

「行けるんか!?」友達は大声です。
「引き潮の流れに合わせたら行ける!」私はさらに大きな声で言いました。
私たちは対岸に浮かぶ淡路島を目指して、お茶2ℓ、そして塩分補給のためにポテチを5袋用意しました。そして翌日、砂浜でボートを膨らませる2人の士気は最高潮です。パンパンになった愛船に乗り込み、大海原へと漕ぎ出しました。漕ぎはじめて5分、いつもの“海の果て”がやってきました。ブイ(浮き)が浮いてあるラインです。
「よっしゃー越えたれー!!」
と、意気揚々遊泳区域を越えた瞬間、言葉に出来ない緊張に包まれました。
(サメがきたらどうしよう)
(水深何メートル?)
(生きて帰れる?)など
しかし、自分から淡路島へ行くと言ったのに逃げることはできません。怖さをふりきるためにも必死でオールをまわしつづけました。波の音ひとつひとつが生き物のように感じます。なぜか恐怖はゴムボートをゆずってくれたおじさんへの怒りとなってきました。
「あのおっさんがゴムボートくれるからこんな目にあってるんや…」
もう限界です。淡路島なんてどうでもいい。もう帰りたい。
(もう帰ろう)その言葉を口にしようとしたとき、目の前にあったのは、涙を浮かべながらオールを漕ぐ友達の顔でした。2人とも絶望的なまでに怖かったのです。阿吽の呼吸でボートを反転させ、来たときの倍の力で漕ぎ出した私たちは、海岸にたどり着くと塩分補給用に備えてあったポテチを食べ、二度とゴムボートで淡路島を目指さないことを誓い合いました。あの時のポテチの味なんて1ミリも覚えていませんが、恐怖だけは覚えています。

先生はなぜこんな“無謀”とわかりきっている冒険に挑むことが出来たのか。それは恐怖を体験したことがなかったからです。今同じことができるかと言われると出来ません。それは恐怖を“知っている”からです。
人間は経験から学ぶことができます。しかし、時にそれは自分の限界を超えるチャレンジの邪魔者になることもあります。“結局こうなるだろうな”“また失敗するだろうな”と経験があるがゆえに弱気になっていることはありませんか?昨日まで出来なかったことを超えていくために、時には“無謀”とも思えることに挑戦することが必要になることもあるのです。
さて、先生もゴムボートを買いにいってきます。